上田宗箇流とお菓子
お茶に、茶のおいしさを引き立たせるお菓子は欠かせません。茶道の発展といっしょにお菓子も洗練され、今日の和菓子・菓子文化につながりました。そのため昔から茶道が盛んな地域には、歴史を伝える和菓子があります。
広島には秀吉に仕え、千利休に茶を学んだ上田宗箇の茶が、茶道上田宗箇流として伝わっています。上田宗箇流を伝える上田家文書にお菓子が出てきます。
お菓子の説明の前に上田宗箇について少し述べます。上田家始祖の上田宗箇は桶狭間の戦いの三年後の永禄六年(一五六三)に、尾張国星崎に生まれ、幼名を亀丸、長じて佐太郎、重安と名乗りました。一〇歳で父を失い、しばらく禅寺で過ごしましたが、やがて召し出されて丹波長秀の侍児となり、二〇歳のとき織田信澄の首を討ち天下にその名を知られました。
長秀が亡くなった後は秀吉に重用され、越前一万石の領主となり、側近の大名として仕えました。秀吉の媒酌により北政所や浅野長政室の従妹である杉原家次の娘を妻にし、文禄三年(一五九四)には豊臣の姓を賜り、従五以下主水正に叙任、摂津の令となり、伏見に住居を構えました。
宗箇の名前が茶の湯の歴史にあらわれるのは『利休百会記』です。千利休が自刃する天正一九年(一五九一)までの数年間に利休から茶の湯を学びました。利休没後は古田織部との親交を深め、ともに大徳寺に参禅し、慶長四年(一五九九)には大徳寺百一一世春屋宗園国師から法諱の宗箇、道称の竹隠を授かりました。
翌年の関が原の戦いでは、西軍についた旧主丹羽長重のもとに駆け付ける途中で西軍敗戦を知り引き返し、剃髪して宗箇と称しました。
まもなく蜂須賀家政に招かれ阿波にわたり、徳島城表御殿庭園の庭づくりのかたわら、茶の湯指南として三年間を過ごしました。慶長七年、親戚筋にあたる浅野幸長の招きで紀州に行き一万石の禄高で厚遇されました。
元和五年(一六一九)に浅野長晟が広島へ移封になると、それにしたがい広島に入りました。広島では毛利氏への備えとして小方(現大竹市)に一万七千石の領地を与えられ、城下大手町筋に上屋敷を拝領しました。上屋敷には紀州屋敷にあった「和風堂」を再興し、藩主長晟を迎えてしばしば茶会を催しました。
翌年に長晟から作庭を命じられると、広島城東の太田川分流右岸に泉水館(現在の縮景園)を完成させました。宗箇は庭づくりの名手としても知られ、徳島・広島のほかにも和歌山城西之丸や名古屋城二之丸などにも庭園を作っています。
上田家の二代重政に家督を譲ってからは、窯を築き茶碗を焼くなど茶の湯三昧の晩年であったと伝えられています。その後も上田家は代々一万七千石を領し、広島藩の国老(家老)を務めました。
(出典:「城下町ひろしまのお菓子」)